筏トリビア

筏師の歴史

筏師の歴史
筏師の歴史(2)

筏文化の年表

西暦 和暦 記事
1594年 文禄3 和州北山材伏見城の用材となる
1604年 慶長9 江戸城本丸普請のため北山材を江戸表に廻送。このとき十津川郷が願い出、筏役を仰せつけられ池原から新宮まで北山川筏長しを始める。
1608年 慶長13 木年貢の制度このころよりでき、池原に奉行所できる
1648年 慶安元 当地方より流下する筏について、新宮川口までと定める
1665年 寛文5 中乗制度が生まれる
(御用木が和州領北山組から新宮領北山組にい中継)
1897年 明治30 このころ各大字ごとに筏組合ができたと推定される
1902年 明治35 このころ各大字ごとに筏組合ができたと推定される
和歌山県令第105号河川流木取締規則制定す。北山川、熊野川では幅16尺(一巾四尺の四巾)総長30間以内は上乗1人とし、30間以上は10間毎に1人を増すことを制定。
1905年 明治38 大井筏組合設立。組合結成組合員21名。
1906年 明治39 最初の朝鮮への出稼ぎ
1910年 明治43 朝鮮鴨緑江へ筏師23名出稼ぎ
1917年 大正6 大阪電気化工業株式会社が東ノ川との合流地点にてダム建設計画を提起。
(北山川における初めてのダム建設計画)
1919年 大正8 6月10日 鴨緑江へ筏師出稼ぎ増加
1950年 昭和25 北山川筏夫労働組合設立。
1953年 昭和28 洪水より筏少なくなる
1955年 昭和30 観光筏始まる
1962年 昭和37 7月27日 七色・小森ダム着工決定。
1963年 昭和38 大沼よりの筏下しは完全にストップ。
木材はすべてトラック輸送となる。
1965年 昭和40 9月 七色ダム竣工式
1968年 昭和43 10月 小森ダム竣工式
1979年 昭和54

1月28日 不動明王祭典、筏組合にて執行してきたが、解散のため大沼区にて祭祀す。

8月 村営観光筏の認可、北山川観光筏下りとして復活

1997年 平成9 筏師後継者事業が始まる

伝統技術

編筏法

筏の名称筏を組む方法は地方によって異なるが、北山村の場合、大筏・並筏に大別され、これをさらにメガ筏・カン筏に分類している。

分類  
大筏 ・径の太い素材で編筏
・尺〆26本以上もしくは床敷9床以上
並筏 ・小径木で編筏
・尺〆25本までもしくは床敷8床以下

一床の幅は約4尺(約1.2m)が標準であり、揃えた木材をメガ筏の場合は「藤カズラ」、または「ネジ木」で結合する。カン筏の場合は、「藤カズラ」を末口より5寸(約15cm)内側に揃えて「カン」で止める。 この「カズラ」を「ノタリ」といい、現在では、試行錯誤の後、ワイヤーを利用している。 ネジ木は、夏場はヒノキの枝、冬は雑木の枝を「ネジ」って編むもので、杉はすぐ切れてしまうので使ってはいけないと言われている。このネジ木は、現在では筏師自身が作っているが、昔は「ネジ切」という専門の職人がいた。 ネジ木は、木特有の粘りや伸縮性があり、床と床が上下にならないようにする役割も持つ。 観光筏はに使う木材は40~60年生のものを使い、新しく組んだら3年は使えるとのこと。使用時期以外は床を重ねて保管されている。

現在も使われているネジ木、保管されている筏

昔のルート

昔のルート図

筏は大台ケ原方面から新宮まで北山川を流し運ばれ、北山村大沼付近が中継点となっていました。

ルートは、池原→七色→大沼→瀞→新宮 の流れです。

朝7時に大沼を出て瀞八丁に付けて3時ごろには戻ってきました。 シフト制のような形で、瀞までの日と新宮までの日がきまっていました。
夏場は水が多く2 日程度、冬場は3日程度かけて新宮まで材木を運搬していましたが、途中で日が暮れてきたら近くの宿に泊まっていました。 (新宮までの宿、瀞ホテル、北民宿、四瀧の宿、川根、九重、浅里)ルートの中で、北山川でも北山村から瀞峡付近までが最大の難所とされており、現在の北山川観光筏下りの最初の瀬であるオトノリはかつて弟乗りといわれ、後継ぎの長男は乗らないといわれた逸話があります。 ここを乗り切る北山村の筏師の櫂さばきは筏師の華とされていました。

新宮では、お酒や女遊びを楽しみ、豪快に遊んで帰ったため資産は蓄えなかったともいわれていますが、食糧難だった当時、宿泊する宿では食料を持参してくるため、筏師は大喜びで迎えられたようです。


現在の観光筏下りルート

観光センター(筏専用バス) → オトノリ →小松(筏専用バス) →観光センター
※5月から9月まで運航中